「月に、百万円は稼げる」
そう聞いて、
俺はこの街に、深く足を踏み入れた。
十七の俺にとって、
百万円という数字は、
現実というより“呪文”に近かった。
それを口にした大人たちは、
みんな余裕のある顔をしていたから。
——なら、ここにいれば、
俺の人生も一気に変わる。
その時は、本気でそう信じていた。
だが、現実は、
容赦のない速度で幻想を剥がしていった。
罵声。
絡み酒。
意味のない怒鳴り声。
時には、仲間が目の前で連れて行かれる。
ほんの数分前まで、隣で笑っていたはずの人間が、
そのまま“いない人”になる。
食べる金がない夜もあった。
帰る電車賃すらなく、
朝まで駅の構内で時間を潰したことも一度や二度じゃない。
借金までして現場に立つ自分を、
どこか他人のように見下ろしているもう一人の自分が、
いつも胸の奥にいた。
——俺、何してるんだろうな。
答えは出ないまま、
ただ夜が来て、また声を張る。
言葉だけは、
嫌というほど増えていった。
パチンコ屋から出てきた人間が、
換金所に向かうかどうかで“見込み”を判断する癖がついた。
ほんの数秒の足取り、
肩の力の抜け方、
視線の泳ぎ方。
それだけで、
“今日は勝っているか”“もう余力はないか”が、
少しずつ読めるようになっていく。
言葉は、武器だった。
「ギャバンゲリオンいかがですか」
「少しだけでも」
「雨ふってますからキャバ宿り、どうですか」
「おっぱいもありますよ」
相手に合わせて、
声色も、言い回しも、呼吸の間も変えていく。
必死だった。
ただ、生き延びるために。
それでも、結果が出るまでには、
長い時間がかかった。
気がつけば、
ようやく月に三十万ほど。
聞いていた“百万円”には、
ほど遠い数字だったが、
それでも、当時の俺にとっては初めて
「自分の足で稼いだ」と言える金だった。
だが、
その達成感さえ、長くは続かなかった。
そんな頃、
一人の年上の先輩が現場にいた。
その人は、
声を張ることもなく、
客を探すこともなく、
ただ端の方で、ずっとスマホなどでゲームをしていた。
最初は、
「この人、何しに来てるんだ?」としか思わなかった。
だが、不思議と、
毎晩そこにいた。
ある日は、
パチンコ屋で代打ちを頼まれた。
作業のように玉を打ち、
終わると、あっさり謝礼を頂き解放された。
その時、ふと尋ねた。
「先輩、どうやって生活してるんですか?」
何の気なしの問いだった。
すると先輩は、
ゲームの画面から目を離さずに、こう言った。
「昼は会社員だよ」
その言葉が、
なぜか異様に重く響いた。
昼は、会社員。
夜は、ここ。
「じゃあ、なんで夜ここに?」
少し間を置いて、
先輩は淡々と答えた。
「彼女がキャバ嬢だからさ。一緒に帰るため」
その言葉には、
虚勢も、言い訳もなかった。
ただ、
生き方の違いだけが、そこにあった。
俺はその先輩を、
どこかで軽く見ていた。
努力もせず、
ただ時間を潰しているだけの人間だと。
だが、ある日、
その先輩が俺に声をかけてきた。
「お前さ、営業センスあるんじゃない?」
唐突だった。
「俺たちの会社なら、
本当に月に百万円なんて、余裕でいくぞ」
冗談のようにも聞こえた。
だが、その目は、
どこまでも現実を見ている人間の目だった。
その夜から、
俺の中で、何かが静かに揺れ始めた。
このまま、ここに居続けるのか。
それとも、
別の世界へ踏み出すのか。
一週間、
答えは出なかった。
夜に立ち、
朝に眠り、
昼に目を覚ます。
その繰り返しの中で、
俺は何度も、自分に問い続けた。
——このままで、本当にいいのか。
そして、
17歳の誕生日を迎えた次の夜。
俺は、先輩に言った。
「……行きます。昼の仕事」
先輩は、
いつもの無表情のまま、
少しだけ口角を上げた。
「そうこなくちゃな」
その一言で、
俺の人生は、
静かに、だが確実に、
次の章へと進み始めた。









